エスニック地域で生じる葛藤ストレスにおけるシンボルの役割-生野コリアタウンを中心に-
鄭 聖希(韓国外国語大学校大学院 グローバル文化コンテンツ学科)
要旨
エスニックタウンは「エスニック」という概念が障壁となり、住民・商人・訪問客ごとに認識が様々である。特に、「生野コリアタウン」は、在日コリアンたちの生活のために形成されたという歴史背景があるが、近年では「韓流」・「多文化共生」の街として広く知られている地域でもある。このような街の変化の中で、街を構成する人々の中では様々な葛藤があったと考えられる。本発表では、生野コリアタウンにおけるシンボルの設置過程を通し、そのような葛藤がどのように変化していったのか、エスニックなシンボルの役割について考察していく。
Keywords: 在日コリアン・シンボル・エスニック・持続可能な社会・生野コリアタウン
1.はじめに
ソウルには、Nソウルタワー。東京には東京スカイツリーがあるように、各地域には様々なシンボルがある。シンボルとは、象徴や表出として訳されることが多く、具体的な定義は、平面上の記号や絵図のみならず、立体なども含まれるなど、研究対象によって異なる。今回の発表では、ラウントリーとコンキーが1980年に提唱した「ストレス・シンボル化」モデルについて注目した。このモデルは、ある空間においてシンボルが形成される基本的な要因は、文化的・社会的ストレスであり、シンボリックな構造の創出を通して、そのようなストレスが緩和されるという理論である[1]。
本発表では、この理論に注目し、在日コリアンが多く居住する大阪市生野区に位置する「生野コリアタウン」を通し、エスニックなシンボル化、またその過程について論じる。特に、「生野コリアタウン」は、在日コリアンたちの生活のために形成されたという歴史背景があるが、近年では「韓流」・「多文化共生」の街として広く知られている地域でもある。このような街の変化の中で、街を構成する人々の中では様々な葛藤があったと考えられる。本発表では、生野コリアタウンにおけるシンボルの設置過程を通し、そのような葛藤がどのように変化していったのか、エスニックなシンボルの役割について検討する。
また、日本では2019年4月に外国人労働者の受容を拡大するために、「出入国管理及び難民認定法及び法務省設置法の一部を改正する法律」が施行され、これにより多様な国・民族の人々が増加すると考えられる。そのため、本事例の分析を通し、エスニックタウンの役割と可能性についても考察する。
[1] 杉浦直(1998) 「文化・社会空間の生成・変容とシンボル化過程-リトルトーキョー観察から-」『地理学評論 Ser. A』 社団法人日本地理学会, 71巻, pp. 887–910
2.韓国のエスニック地域におけるシンボル
韓国行政安全部の「地方自治体外国人住民現況説明資料」[2] によると、2018年11月1日現在、韓国での外国人住民数は、2,054,621名であり、2017年 1,861,084名と比べると193,537名(10.4%)が増加している。また、外国人住民の比率は、2006年1.1%から、2018年4.0%と3倍以上増加しており、韓国内で外国人が年々増加していることがわかる。このように外国人の増加に伴い、韓国ではエスニック地域が形成されてきた。本発表では、韓国国内にあるエスニック地域におけるシンボルについて簡単に触れておく。
まずは、ソウルの南の方に位置している「ソレマウル」だ。「村の前の小川が曲がりくねって流れる」という意味のソレマウルには、現代的でフランス風の様々なレストランとカフェなどがある。この場所は、1985年に在韓フランス人学校がこの土地に移って以来、フランス人たちが居住するようになった地域だ。ソレマウルに居住しているフランス人は主に、外交官・事業家・言語教師や駐在員やその家族が多い。また、韓国の芸能人も多く住むこの街は、高級住宅街としても知られている。ソレマウルには、フランス語が記載されたバス停留所の案内板、またフランス国旗がデザインされた歩道やガードパイプなどのシンボルがある。
また、ソウル東部に位置する九老区加里峰(カリボン)洞は、中国吉林省延辺出身の朝鮮族が多く暮らしている地域だ。1992年の韓中修好を契機に、韓国に来る朝鮮族が増え、住居費用が安い加里峰洞に居住し始め、自然発生的にチャイナタウンが形成された。加里峰洞には、中国語や韓国語で書かれた看板がたくさん見受けられ、中央市場の入口には、中華民族の精神の象徴である「龍」の絵がデザインされているなど、中国と関連したシンボルがある。
京畿道の西部に位置する安山(アンサン)市は、韓国一外国人が多い都市だ。1997年のIMF危機で、経済危機、人材不足に陥り、低賃金労働力として外国人労働者を雇うようになり、工場などの働く場所が多いため、安山に人が集まるようになったと言われている。外国人が多く居住している「国境のないまち」とよばれる元谷(ウォンゴク)洞は、2009年に政府より「安山多文化特区」に指定された。安山市のシンボルで、有名なのが58カ国の国旗で作られた「あしながおじさん」だ。「私たちは1つです、愛しています」というメッセージが込められている。また、世界各国の方向と、その国までの距離が記載されている表示板などがある。
上記で述べたように、ソレマウルはフランス、加里峰洞は中国に関するシンボルが多いが、安山は、外国人が多く住む町ということもあり、1つの国のシンボルではなく、多文化なシンボルが多いのが特徴的であるといえるだろう。
[2] 行政安全部「地方自治体外国人住民現況説明資料」, pp. 1-2
3.生野コリアタウンにおけるシンボル
ここでは生野コリアタウンにおけるシンボルについて、記述するが、その前に生野コリアタウンの歴史について簡単に触れておく。生野コリアタウンは当初は、「朝鮮市場」と呼ばれ、1926年に、鶴橋公設市場が開設されたことを契機に「朝鮮市場」ができたといわれている。ただし、当時の朝鮮市場の場所は、現在のコリアタウンの南方100メートルほどのところだった。1945年には、近隣の今里地域が空襲を受け、東側の商店街は半分ほどが消失し、1951年には、商店街が3つに分離した。また、1984年には、大阪青年会議所、韓国青年会議所によりコリアタウン構想の提案があったが、このことが某新聞の新聞記事に掲載され、外部内部から苦情が続出し、実現に至らなかった。しかし、地域活性化の第一歩として、御幸通東商店街振興組合と御幸通中央商店街が、補助金を受け、門と道路舗装・街路灯を完成させた。また、2002年の日韓ワールドカップや、韓流ブームなどをうけ、 近年では「韓流」・「多文化共生」の街として広く知られている。
それでは、具体的に生野コリアタウンにおけるシンボルについて考えていく。御幸通東商店街にあるアーチ(写真1)は1993年に作られた。百済門という文字の左右には、赤青黄色からなる「三太極」がデザインされている。「三太極」は天・地・人が一つに混ざった状態を示したもので、 空・地・人が集まって宇宙になるという意味が込められている。また、1993年にアーチが完成した当初は、まだ百済門という文字はなく、2002年に新たに追加された。生野区は、百済からの渡来人が多数居住した地域でもあるため、そのつながりを大切にしたいと、コリアタウンのゲートに「百済門」という文字を入れることになったのである[3]。また、御幸通中央商店会にあるアーチ(写真2)も1993年に作られた。デザインは、当時の中央の会長であった洪性翊が担当し、扁額[4] は韓国の仁寺洞にて作成され、色は韓国独特の丹青をイメージしている。丹青とは、赤・黄・白・黒・青の5つの五方色を基本に使用し、建築物に様々な模様と絵を描いて美しく荘厳に装飾したものを指す。また、2009年の10月に生野コリアタウンの中にあり、1600年の歴史を持つ御幸森天神宮にて、王仁博士が詠んだとされる「難波津の歌」 の歌碑(写真3)もシンボルであるといえるだろう。歌碑には、「難波津の歌」[5] が万葉仮名・かな・ハングルで併記されている。建立委員会は、百済人である王仁博士が詠んだとされる「難波津の歌」を、朝鮮通信使を迎える立場の日本側通訳がハングルで書き表したことに、「二重の意味」での「善隣友好」という大きな価値を見出し、そして、日本人と在日コリアンが共生するまちにその歌碑を建立したのである。
写真1
写真2
写真3[6]
上記以外にも、生野コリアタウンには様々なシンボルが存在する。それぞれのシンボルが作られた時期や意味などは異なるが、住民や訪問客に広く知られていないという現状がある。そのため、このようなシンボルについて、もっとたくさんの人に知れ渡るような取り組みが必要であると考えられる。
[3] 『読売新聞』2002年3月14日。(検索日2020年1月27日)
[4] 横に長い板。
[5] 難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花。
[6] 写真1・2筆者撮影。写真3『民団新聞』2009年11月5日。(検索日2020年1月27日)
4.終わりに
生野コリアタウンの場合、商店街存続の危機、そして韓国・朝鮮人と日本人、東・中央・西の三者、さらには韓国・朝鮮人の世代の差などによる文化的・社会的なストレスがあったと考えられる。生野コリアタウンは、1993年のアーチ・街灯・道路舗装がきっかけとなり、1994年には商店街の一部で祭りも始まった。上記のことから、このようなシンボルができたことにより、当時問題となっていた文化的・社会的ストレスが緩和されたと考えられるのではないだろうか。
また、様々な場所や地域に対する評価は、場所のイメージがもとになり、シンボルはその一端を担っていると考えられる。「生野コリアタウン」におけるシンボルは、「韓国」を全面に打ち出しながらも、アーチに刻まれた言葉や歌碑の建立などから、「共生」という精神が込められている。そして、それは「生活者」としてともに歩んできたということが土台にあるためである。多文化共生社会において、シンボルは地域社会のストレスを軽減するだけでなく、その意識づくりを行う役割も担っているのではないだろうか。私たちはシンボルの形や大きさ、デザイン性に普段目がいきがちだが、シンボルの形にのみこだわらず、そこに込める精神、そしてその精神を受け継いでいくことも、また大切ではないだろうか。
【参考文献】
- 岩淵功一(2010)『多文化社会の<文化>を問う』,青弓社, pp.43-56
- 上田正昭(2011) 『ニッポン猪飼野ものがたり』, 批評社, pp.338-342
- 王仁博士歌碑建立委員会編(2009) 『「難波津」の歌と猪飼野』, アットワークス, pp.6-8
- 高賛侑(2007)『コリアタウンに生きる 洪呂杓ライフヒストリー』, エンタイトル出版, pp.86-98
- 谷富夫(2002)『民族関係における統合と分離』, ミネルヴァ書房, pp.12-17
- 杉浦直(1998) 「文化・社会空間の生成・変容とシンボル化過程ーリトルトーキョー観察からー. 」『地理学評論 Ser. A』 社団法人日本地理学会, 71巻, pp.887-910
- 八木寛之他(2017)「エスニック・タウンで「商店街の価値を高める」ことの意味ー大阪・生野コリアタウンにおける商店街活動と「多文化共生のまちづくり」-『日本都市社会学会年報』日本都市社会学会, 35巻, pp.121-137
- 吉田友彦(1996)「日本の都市における外国人マイノリティの定住環境確立過程に関する研究」 ,『建築年報』日本建築学会, p.90
- Jahg Hee-Kwon and Ha Jeong-Hwa(2011) 「 Globalisation and Ethnic Conflicts 」『JOURNAL OF INTERNATIONAL STUDIES』 15, The Institute for International Studies, pp125-147
- Lester B. Rowntree and Margaret W. Conkey(1980) 「Symbolism and the Cultural Landscape」『 Annals of the Association of American Geographers 』 Vol. 70, pp. 459-474
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