日日ってどんなとこ?What is "Nichi-Nichi"?
大学デビューの原体験
先生は学生時代、どんな学生だったのですか?
今からかれこれ40年前のことになってしまいますが、わたしの大学デビューの原体験があります。それは筑波大学で言えば、共通科目に当たる、当時のことばで「一般教育科目」(ぱんきょう)の科目で、「科学史・科学論」という講義でのできごとです。
1回生4月当初のこととてそれなりに希望を抱いて大教室に着席していたはずですが、ご担当の松尾幸秊先生は、「この授業はあなた方には難しい内容ですから、単位だけ必要な人は出て行ってもらってかまいません。レポートなどについてはまたその時期に説明します」 とおっしゃったのです。
で、第2回目の講義のおりには、多くの学生はじつに素直に授業には来ず、200人以上はいたかと記憶している大教室の前列近くの数列にちらほらと学生が着席していました。わたしはというと素直でなかったのでしょうか、先生の忠言も聞かずに、けっきょく1年間出席し続けていました。
それはどんな授業だったのですか?
チャールズ・ギリスピー(島尾永康訳)『科学思想の歴史』(みすず書房)を教科書として各章ごとに解説講義してゆくものでした。現在も新版『客観性の刃』として改題出版されている科学史の重厚な名著ですが、もちろん当時のわたしは知るよしもなく、ただただやたら分厚く重い本としか認識されていませんでした。
科学史、ですか・・・
当年度の授業はたしかニュートンから始まったと思います。ところが近代科学の祖のイメージしか持ち合わせていなかったニュートンの、「光学」のなかで説かれている「エーテル」なる不可思議な「物質」や、ロイヤル・ソサエティとの確執、錬金術との関わりなど、とても「科学」的とは思えない事象のなかから近代科学が生成してくる歴史が辿られており、授業が回を追うごとに楽しみになってきたのを覚えています。
それは、日本語・日本文化学類での先生の授業と、どのようにかかわってきますか?
わたし自身は日本文学を勉強しようと思って入学したのですが、いっけん何の関わりもないかのような「科学史・科学論」の授業が、こんなに興味深いものとは思ってもみなかったです。もちろん日本文学の学問内容に直接関わるわけではありませんが、でも科学史という、学問を相対化して捉える発想がどの分野にとっても重要であることは、少し勉強を進めてゆくと痛感されます。
自分が行っている研究が、研究史上、広くは社会においてどのような位置にあるかをたえず自省することが、いま求められているからです。